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第十四章 積み重なる真実

Auteur: 相沢蒼依
last update Date de publication: 2026-09-14 14:54:42

 弁護士事務所の個室は、静かで落ち着いた空気に包まれていた。

 厚いカーペットが足音を吸い込み、壁際の間接照明が淡い琥珀色の光を落としている。

 テーブルの上には、澪が少しずつ集めてきた資料が並んでいる。

 通帳のコピーと振込記録。過去のメッセージの写し。そして――三年前の日付が印字された、一枚の銀行振込受付票。

 白い紙が照明を受けて鈍く光り、角がわずかに折れた跡が、長い時間を経てきたことを物語っていた。

 担当弁護士は眼鏡の奥でそれを見つめ、銀行振込受付表を取り上げる。指先で丁寧に縁を押さえ、文字をゆっくりと追いながら、静かに口を開く。

「この五千万円の送金についてです」

 送り主は御子柴智也。受取人は白石琴葉――金額は五千万円。

 紙の上に印字された数字が、部屋の静けさの中で異様なほど大きく感じられた。

「離婚調停や財産分与の場では、この送金理由も重要になります。贈与なのか、貸付なのか。それとも、別の関係性を示すものなのか」

「……はい」

 澪は静かに頷いた。椅子の背もたれに軽く体を預け、両手を膝の上で重ねる。

「本人に確認します」

 弁護士は資料を閉じると、澪をまっすぐ見た。眼鏡の奥の視線は冷静なのに、不思議と優しさを含んでいた。

「感情的に詰め寄る必要はありません。ただ、事実を確認するだけで十分です」

「分かりました」

 澪は短く答えた。

 もう、感情に任せて何かをぶつけるつもりはない。知りたいのは、事実だけだった。

 部屋の空気がわずかに動き、ブラインドが夜の光を細く切り取っている。

***

 弁護士事務所を出ると、夜の冷たい風が頬を撫でた。

 高層ビルの谷間を吹き抜ける風は、昼間の熱をすっかり奪い、アスファルトの表面を冷たく湿らせている。

 澪は不意に足を止め、小さく息を吐く。吐いた息が白い煙となって、夜気の中にすぐに溶けていった。

 これまでなら、知ることが怖かった。事実を知れば傷つく。知れば、今まで信じてきたものが壊れてしまう。そう思っていた。

 けれど――もう違う。どれだけ残酷な真実でも、知らなければ前には進めない。

「大丈夫。私はもう逃げない……」

 小さく呟き、澪は歩き出した。ヒールの音が冷たい石畳に規則正しく響き、街灯の光が彼女の横顔を優しく照らす。

 知るべきことは、すべて知るその先にある未来を自分で選ぶために。

***

 その夜。智也が帰宅し、リビングのソファに腰を下ろしたところで、澪はテーブルの上に一枚の紙を置いた。

 部屋は薄暗く、天井のメインライトは消え、テーブルランプの黄色い光だけが円を描いて床と壁を照らしている。

「これについて、聞かせてください」

 智也が視線を落とす。そこに印字された名前を見た瞬間、わずかに眉が動いた。

 紙の表面がランプの光を受けて鈍く輝き、白い文字がくっきりと浮かび上がる。

 白石琴葉。そして、その隣に記された五千万円という金額。

「……なんだよ、これ」

「三年前、白石さんに五千万円を送金していますよね」

 澪の声は、驚くほど穏やかだった。

 テーブルの木目に指先を置き、視線を外さずに智也を見つめる。ソファのクッションが沈む音が、静かな部屋に小さく響いた。

「理由を教えてください」

 智也は一瞬黙ったあと、何でもないように肩をすくめた。ネクタイを緩めたままの手で、グラスもないテーブルの端を軽く叩く。

「琴葉の父親の会社が倒産寸前だったんだ」

「……そうですか」

「それで放っておけなかっただけだよ」

「五千万円も?」

 澪が問い返すと、智也は少しだけ苛立ったように眉を寄せた。ランプの光が彼の横顔に影を落とし、額に薄い皺が寄る。

「ああ。琴葉の父親には、昔世話になった義理がある」

「だから、白石さんに五千万円を?」

「そうだよ」

 智也は、当然のことのように言った。ソファに深く座り直し、天井を一瞬見上げる仕草をする。

「だって、恩人の娘だからな」

 当然――その言葉が、澪の胸に静かに沈んだ。

 恩人の娘には、五千万円。自分が養父の命を救うために百万円を頼んだときには――五十万円。

 部屋の空気が、急に重く感じられた。時計の秒針が、異常なほど大きく聞こえる。澪は、目の前の男を見つめた。

「私は養父の命を救いたくて、あのとき百万円をお願いしました」

 智也の手が、わずかに止まる。指先がソファの肘掛けで固まり、呼吸が浅くなったのが見て取れた。

「あなたが渡してくれたのは、五十万円でした」

 澪が過去を告げた瞬間、リビングに重い沈黙が落ちた。

 智也は口を開きかけた。けれど、すぐには言葉が出てこなかった。

 あのときは、それで十分だと思っていた。澪なら何とかする――そう思っていたのかもしれない。

 だが今、目の前に並べられた数字を見ていると、あまりにも大きな差があることを、初めて意識させられる。

「えっと……それは、だな――」

 ようやく声を出した智也だったが、その先が続かない。

 言い訳を探しているのか。それとも、本当に言葉を失っているのか。傍から見ている澪には分からなかった。

 ただ、責める言葉は口にしなかった。怒鳴ることもしない。泣くこともしない。淡々と静かに、智也を見つめているだけ。

 その視線から逃れるように、智也は目を逸らした。窓の外の夜景に視線を移し、街の灯りをぼんやりと追う。

 胸の奥が、妙にざわついていた。今までなら、こんなことは気にもしなかったはずだった。

 琴葉に五千万円を渡したことも。澪に五十万円しか渡さなかったことも。そのときの自分には、それぞれ理由があった。

 だから、間違っているとは思っていなかった。なのに――なぜ今になって、こんなにも胸が重いのだろう。

 澪の静かな視線が、頭から離れなかった。

「……今日はもう、休みます」

 澪は、振込の控えを手に取った。紙が指先でわずかに擦れる音が、静かな部屋に小さく響く。それ以上、何も言わずにリビングを出ていく。

 ドアが閉まる音が乾いて響き、彼女の足音が廊下に消えていった。

 残された智也は、しばらくソファから動けなかった。

 テーブルの上には、もう何も残っていない。ランプの黄色い光だけが円を描き、空のテーブルを照らし続けている。

 それなのに五千万円という数字だけが、いつまでも頭の中に残っていた。

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